うさの上強膜炎&ブドウ膜炎 
PART3  10/5お葬式〜その後の生活、「完結」

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10月5日(火) 〜お葬式〜

  朝、起きてみるとやっぱり夢じゃなかった。うさは目を覚まさない。うさに線香をあげて、出掛ける支度をする。私にとって身内の初めてのお葬式。通常、ペットの場合そうまでしないことは知っていたが、私にとってうさは最愛の家族の一員、だから喪服を着ていこう。うさパパは会社に電話を入れ、正直に理由を話して半休をとった。葬儀後、出社するため喪服は着れないが、紺のスーツにうさぎ柄のネクタイを締めて、うさパパなりに喪に服しているみたい。
   8時頃に業者の人から到着の電話が入る。うさの眠る箱を持ち上げ、ぴーちゃんにお別れさせる。でもまだわかっていない様子。ちょっと鼻を突き出してくんくんするとすぐに引っ込んでしまった。私もうさの体を撫でて額にキスをする。
葬儀屋さんのワゴン車は、外見は普通。しかし後ろのドアをあけるとそこには霊柩車というだけあって、天井も壁面も造花でいっぱいに飾られた祭壇があった。そこにうさを置くようだが、私は「自分で抱っこしていたい」とそれを断り、うさと一緒に座席に座り、うさを膝の上に置いた。車中、ずっとうさの手を握り締めていた。

   火葬場脇の祭壇前で、カセットテープのお経を流しながら簡単にお別れ式を行った。その後、箱から、白い布の上にうさを移した。業者の人が焼く準備をしている間にうさの体を撫で、額にお別れのキスをした。これが最後だ。すると、私の髪の毛の1本が抜けてうさの体にからみついている。そこで「お母さんは一緒に行けないよ。でも、髪の毛だけは一緒に行こうか。」と、その髪の毛を数回まげて結んでうさの内腿に挟み込んだ。これなら焼却炉の熱風にも吹き飛ばされないね。この業者の話では窯は6つあるそうだが、うさぎの遺体を焼く場合は特定の窯を使用しないと、お骨がきれいに残らない。せっかく立ち会いでお骨を拾いに来ているから、きれいにお骨が残るような窯を使用するとのこと。焼却炉の蓋が開き、白いシーツに乗ったうさがその中に収められた。私はそのうさの体の周りを花で囲んで、淋しくないように体の横に私達家族の写真を置いた。蓋が閉められ、スイッチが入る。業者の人は「40分くらいかかるので、待合室で待っていてください。」と言ったが、私はしばらくの間そこを離れられなかった。ずっと泣かないように元気に振る舞っていたのだが、もう、うさの柔らかなふわふわの体を撫でることができなくなったと思うと、もう我慢ができず、泣き出してしまった。落ち着いてから焼却炉を離れ、そこから昇るうさの煙でも見ようと思ったが、煙突の上からは、透明な熱気がゆらゆらとしているだけ。とりあえず手を合わせた。空が高くて、すみきった青空だ。
  待っている間、ずっと家から持ってきたうさの「兎守り」を握り締めていた。ずっとうさのケージにつけてあったもの。うさのお骨に一緒に入れてあげようと思って持ってきた。
  納骨堂等を見て回って、待合室で休んでいると業者の人がやってきた。「時間どおりに焼いて見てみたら、お腹の中がいっぱい燃え残ってしまったので、もう少し長く焼いてみます。あと15分くらい。」とのこと。それを聞いて「やっぱり」という気持ちだった。人間でも、悪いところ(ガンとか)は燃え残るというから。うさの体内は菌があちこち悪さしてたから、菌に侵された場所は残るのかな。

  15分後、窯からうさが出された。15分も延長して焼かれたのに、お腹の中はまだ燃え残っている。でも、これ以上焼くと、お骨が全部崩れて箸で拾えなくなってしまうらしい。今でも、ちょっと崩れ気味。驚いたのは、頭蓋骨の小ささ、それもあるが、それよりも、燃え残って黒い炭状になっている部分の大きさ。「なにこれ?お腹の中全部じゃないの?」ってくらい。頭蓋骨の1.5倍くらいの炭がお腹にある。うさの体の細さを考えると、腹の中の臓器全部じゃないかと思える。さらに、頭蓋骨の中にも炭状の物が。眼球か脳かな。こんなじゃ、相当痛かったよね。本当に痛かったよね。うさは、よく頑張ったんだ。お骨を箸で拾いながらとても切なくなってしまった。業者の人も、「うさちゃんは、相当ひどかったんだ。こんなじゃ、かなり痛かったはずだよ。相当大きいもんね。こんなに残るとは私もびっくりです。菌が脳まで行ってるみたいだし。それと、うさちゃんの体の周りに緑っぽい色が飛び散ってたでしょ。あれは多分、強い薬。人間でもガンの人だと、焼いた後に明るい色の抗がん剤が残るから、それと一緒だと思うよ。」と言っていた。うさのお骨を全て骨壷に納め、一番上にうさの「兎守り」を置き蓋を閉じた。
  私はうさの遺骨を納骨堂には納めず、自宅に持ち帰った。どうしても置いて帰る気にはなれなくて。業者の人に「お骨はどうするの?」と聞かれ、「とりあえず家に置いておきます。庭付きの家を購入したら庭に埋葬しようかな。」と答えておいた。ここの納骨堂には、後からでもいつでも無料でお骨を納められるとのことなので、ちょっと安心。今の時点では、これからどこに引っ越すことになるかわからないし、お骨をどうしてあげたらいいのか判断がつかない。ただひとつ言えるのは、骨であっても、これはうさなので、まだ一緒に居たいということ。

  業者の人に自宅まで送ってもらい、帰る際に線香、線香立て、マッチ、蝋燭、燭台等をもらった。家の中に入り、まず、うさのケージの中にうさの座布団を敷いて、その上に骨壷を安置。その横にうさの写真をいれた写真立てを飾り、前にうさのごはんと水を置き、燭台と線香立てを置いた。そしてうさパパと2人でお線香をあげた。今日もまた、うさのケージには明るい陽が射している。ただ、風景があまりにも違いすぎて、何だか違和感。
  うさパパが会社に出掛けた後、どうしても我慢できなくてやってしまった。骨壷を取り出し、蓋を開けてしまった。ちょっとだけ崩れてしまったが、ほぼ完全に残ったうさの頭蓋骨が見える。それをそっと取り出して手のひらに乗せる。小さな小さな頭蓋骨。上あごの前歯・奥歯ともにとっても歯並びがいい。きれいな歯。下顎の骨も取り出す。下顎の骨は、片側は時間延長で焼いた際に崩れてしまったので、完全には残っていない。でも、こっちの歯もきれい。うさの頭蓋骨を見つめながら、頭の中で肉付けをしてイメージしてみる。骨でも、愛しくて愛しくて仕方がない。骨壷に戻す前に、思わずまたキスをした。骨壷の中の半分灰になった骨を見つめていて、変な話だが、勝新太郎の気持ちが良くわかってしまった。生前、彼の父親が亡くなった際に、彼は父親の遺骨の一部を食べていた。その時はTVのなかのその光景に驚いたが、今、私もうさの小さな骨のかけらを食べてしまいたい衝動に駆られている。食べれば自分の体の一部となって、ずっとうさと一緒にいられる。でも、それは生前のうさとの約束を破ることになってしまう。「うさのお母さんだから、うさぎは絶対に食べないよ」うさにそう約束したっけ。うさの骨を食べちゃったら、うさぎを食べたことになっちゃうね。結局、正気にかえってうさの遺骨を食べることは無かった。

  うさとまだ一緒に居たくて、この晩もまた、うさの遺骨が入ったケージの前で寝ることに。ここで寝ていれば、もしかしてまたうさに会えるかも?と変な期待をしてしまう。「幽霊でもいいから会いに来て!夢の中でもいいから会いに来て!」


10月6日(水)

朝起きて、少々がっかり。夕べはうさに会えなかった・・・。ケージの中に居るのはふわふわのうさではなく、骨壷だった。気を取り直して、いつもどおりにうさとぴーにごはんとお水をあげる。うさにはお線香も。よくわからないけど、四十九日までは、うさの生前と同じく朝晩ごはんも水も新しいものをあげよう。それと朝晩お線香も。無宗教の割には、何だか四十九日だの初七日だの気になってしまう。変なの。
  家の中にいると、一日のうち何度もうさを確認してしまう。何かの拍子にうさのケージの方へ振り返った際、その見慣れぬ風景に思わずドキッとする。ケージの中にはうさではなく、骨壷、花、写真、線香・・・。台所に立っていると、左眼の視界の中にうさのケージが見える。振り返ってケージの中を確認してがっかりする。うさかと思った白い影は、骨壷のまわりの白い刺繍の入れ物・・・。どうしても、うさのいない風景に慣れることができない。うさがいないことはよくわかっているはずなのに、実際、私の目と脳はうさがいない風景にまだ戸惑っている。

  今日もまた、うさのケージの前で寝る。


10月7日(木)

  朝方、うさの夢を見た。ケージの中で、ごはん入れに鼻を突っ込んで、大好きなクッキーを食べながら上目遣いで私を見ている。ほんの1分くらいの短い夢。うさ、ちゃんと食べられてるんだ。何だか嬉しかった。もうちゃんと食べられるようになったんだよね。痛くも無いんだよね。「しばらく食べられなかったけど、今はもう食べられるんだよ。心配しないで。」って、うさに言われているような気がした。きっと、それを伝えに来てくれたんだ。


10月10日(日)

今日は初七日。
  きちんと朝晩、ペレット2種類、クッキー2種類、乾燥野菜をごはん入れに入れて、水も取り替えて、お線香を立てている。ぴーちゃんに野菜や果物をあげる時は、うさにも同じようにあげる。うさがいた時と全く変わらない。なぜなら、夢で見たように、うさがちゃんと食べているはずだから。

 今日もうさのケージの前で寝る。かれこれ10日くらいの間、座イスとクッション、タオルケット暮らしだが、これも今日でおしまい。とりあえず初七日の今日までで区切らないと、いつまでもひきずってしまいそうだから。

  そういえば、数日前の一回だけだ。うさが夢に出てきたのは。あれ以来、こんなにうさのことで頭がいっぱいなのに、何故かうさは夢に出てこない・・・。


10月20日(水)〜最後の日記〜

もう、かなり落ち着いています。 ここ数日、闘病日記を完成させようと、ぽつぽつと上の文章を書いていました。昨日、うさの最後の日の日記部分にさしかかり、書いている最中にどうしてもこらえきれなくなって、声を出してわんわん泣きました。PCの前から離れ、うさの骨壷を抱きしめて「つらいよ〜!もう一回うさに会いたいよ。もう一回うさに触りたいよ。」と情緒不安定な状態。しばらくして落ち着きましたが・・・。
  その夜のことです。久しぶりにうさの夢を見ました。うさパパと私が部屋の中にいます。床にぺたんと座り込んでいる私の左足横に、生前のようにうさが寄り添っています。夢の中の私は、一瞬その光景が信じられず、「えっ?うさ?」と、恐る恐るうさに手を伸ばしました。「触ろうとしたらきっと消えちゃうんでしょ?」と思いながら。でも、ちゃんとうさに触れました。温かくてふわふわで柔らかくて、間違いなく生きているうさです。私はうさパパに「ねぇ、うさだよ!うさが帰ってきたよ!」と言い、うさパパは信じられないといった様子でしたが、触ってみてそれが本当だとわかったようでした。しばらくの間、私はうさを撫で、うさを抱っこし、幸せな気持ちでいっぱいでした。するとだんだんとうさが動かなくなり、どんどん冷たくなっていったのです。そう、本当にもう一度、うさに触って、抱きしめて、願いが叶ったところでうさはまた去っていってしまったのです。
  朝、起きてからしばらくは、この夢をどうとらえたらよいのかわからず、考えてしまいました。確かに夢の中で願いは叶った。すごくすごく嬉しくて、幸せな気分だった。でも、もし現実にこれが起こったとしても、やはり叶ったところでそのまま一生うさが生き続けることはないんだね。嬉しいけど悲しい夢でした。

 今日で、日記は終わりにします。いつまでも引きずってるみたいだもんね。でも、本当にひきずっているのは確かです。うさのことを早く忘れようとは思っていません。ずっとずっと覚えておきたいし、ずっとずっと大好き。愛してる。無理に泣くのをこらえたり、つらい気持ちをおし殺したりもしません。長い間一緒に生活してきたうさが居なくなって、悲しむのはあたりまえのこと。仕方がない。でも、時が経てばちゃんとおさまるはずだから、無理に明るく振る舞う必要も無いと思うんです。こういうときに、無理に気持ちを押し殺す方が、立ち直りが遅くなると思うんです。悲しむ時は、遠慮なく悲しんじゃえ!うさにも、そう話しています。「もう少したったら、自然ともとに戻るから、少しの間は泣くのも悲しむのも見ていてね。長く一緒にいたうさが居なくなっちゃったんだから、こればかりは仕方ないよ。必ずもとにもどるから。」と。


うさの闘病日記「完結」

今回、うさは闘病生活から抜け出せないまま、ぴーちゃんよりも一足早く、お月様へ帰ってしまいました。
   この闘病日記は「上強膜炎&ブドウ膜炎」というタイトルで、目の疾患のことを書き綴っていた訳ですが、実際はもっと深刻なものでした。目に病気が出たのも、元を正せば「菌」の仕業。別な章で書いた「耳の異常(斜頚)」も「皮膚の異常(治らない足の湿疹)」も、今回の治療中で担当してくださった多くの先生方(7名ほどいたかと思います)の意見は全て「細菌」(パスツレラ等)と結びつけておられました。ですから、治療内容も、抗菌作用のある抗生物質の投与(うさぎに対して安全なものです)という形で一貫して行ってきました。その抗生物質も、死ぬまでずっと投与を続けなければならないと言われていました。何故なら、今以上の症状がでるのを抗生物質で押さえ、また出てしまっている症状についてはその進行を押さえるために。最後の方は、抗生物質で生かしている状態だったようです。抗生物質の長期投与について、戸惑いも全く無かったわけではありません。しかし、途中で投与をやめる勇気もありませんでした。私は、病院の多くの先生方を信頼し、色々相談し、先生方の方針に従い治療を続けてきました。
  今回、長くお世話になった病院は、「病院の料金」のところでも書いているように、本院、分院の2箇所の病院に十数名の獣医師の方々が交代で勤務しています。特に、決まった曜日の同じ時間だからといって、同じ先生がいるわけではなく、当初は正直言ってそれが嫌だなと感じました。一貫して一人に診てもらったほうが安心では?と考えていました。しかし、長く通うに連れて途中から考えが変わったのです。色々な先生がうさのカルテを見て、前の先生がどんな処置を行ったのかを見ているんです。そして、自分もそのやり方で間違いないと思えば、それに従うし、ちょっと無理があると思えば、いい方向に正して行ってくれるし。これだけの獣医師が診ているんだから、逆に安心なんだなと思うようになりました。実際,この病院は「うさぎ」という棚にカルテが山ほどありましたので、相当診ていることは間違いないようです。
   言葉を話せないうさに変わって、どうしてほしいのか、どんな状態なのかをできるだけ正確に先生に伝えることは本当に大事です。些細なことでも、「嫌だな」とか「どうして?」と思ったら、素直に伝えるべきです。私も途中、色々な薬を変えてもらったりもしました。「これでは量が多くて投与しづらい。うさの負担が大きい。」と言えば、量が少なくてすむ形状に変えてくれたり、「この薬はベタベタして、毛が湿ってしまう」といえば、さらっとしたものに変えてくれたり、「何だか効果が無いみたい」と言えば、別なものを探してくれるし。たまに、つるつるの診察台の上にそのまま「うさを乗せて下さい」と言われたこともありました。そのまま乗せると、手足が滑ってしまい、うさがふんばってつらそうです。「台にタオルを敷いてもらえませんか?」と一言言えば、状態は改善されます。処方された薬に対しても、必ず質問するべきです。何の効果があるのか、どんな働きなのか、うさぎに安全であるか。聞き忘れたこと、家に帰ってから不安に思ったことは電話で聞いたこともありました。私にはうさにかわって色々と確かめる責任があります。以前にかかった別の病院では、料金の請求内容が不明確なことや、「うさぎはこうやるとおとなしくなりますから」と耳を掴まれた事もありました。そのときは、疑問を感じても何も言えずにいましたが、今回の病院では長いこと通いなれたせいか、結構思ったことは口にしていました。これが正しい姿なんだなと思います。だって、私は人間の言葉が話せるんだから。
  うさを完治させてあげられなかったことは、非常に残念です。「貯金、全部使い果たしても治してあげる」(微々たるものですが)と豪語してきたのですが、良い子のうさは、使い果たす前に去っていきました。でも、やれるだけのことはやってきましたから、あまり悔いも残りません。今は、うさが痛みの無い世界で、元気に跳ね回り、たらふくおいしいものを食べていると信じています。


〜 最後の最後に 〜

  皆さん、本当に御心配おかけしました。そして、お気遣いありがとうございました。うさ&うさママ、心から御礼申し上げます。うさの葬儀、そして初七日も無事に済み、とっても平穏な毎日を送っています。うさのいない生活は、正直言ってちょっと拍子抜けした感じです。ここ数ヶ月うさの闘病でうさを中心に生活していた為、うさが旅立ってしまった今、1日1日が非常に長く感じます。うさとお別れする日の数日前から、うさの容態は良くなくて、うさのケージの前に座イスとクッションをおいていつでも手が伸ばせる距離で寝起きしていました。夜中、ガタっと物音がするたびに起きてケージの中に手を入れてうさをなでたり、うさの手を握って寝たり・・・。うさの肉体は無くなってしまったけど、うさの残してくれたもの、私に与えてくれたものは何と多いことか。うさと一緒に呼吸が出来た4年9ヶ月の日々は、すごく充実した素敵なものでした。「ありがとう!感謝してるよ!」という言葉では言い尽くせないくらいです。うさは旅立ってしまいましたが、不思議と思ったほどにへこたれていないんですよね。私は昨年夏に仕事を辞めて、それから今まで専業主婦状態。働く気はあったんですが、2月にうさが斜頚になったことで、外へ出るのが怖くなって、ずっとうさと一緒にいちゃいました。お陰でこの1年ちょっとは、日中ほとんど外出もせず毎日毎日うさ・ぴーと朝から晩まで一緒に過ごし、思う存分可愛がることができました。連絡をくれる友人達は必ずと言っていいほど「家にいて退屈しない?」と聞いてきましたが、私はいつも「うさぎといるから、すごい楽しい〜!全然飽きないよ。」と答えていました。毎日うさの体に顔をうずめて、うさの温もりを感じながら「うさ、愛してるよ。うさは最高のうさぎさんだよ。うさいいこだね。うさだ〜い好き。うさに会えて良かったよ。うさ、お母さんの所に来てくれてありがとう。うさと一緒にいられて幸せだよ。うさ、ありがとね。愛してる。」ってな具合で、うさに対して言いたいことは全部伝えてきました。思う存分可愛がれたし、愛することができたので、うさが旅立った今、自分が予測していたよりも心が穏やかなんだろうなって思います。後悔や未練が全く無いわけでは無いのですが、精一杯の愛情を注ぎ、愛を伝えてきたことを、うさはきっとわかってくれていると思うんです。ちゃんと伝わっているって、そこだけは不思議と自信があるんですよね。これからは、未亡ぴょんになってしまったぴーちゃんに、うさの分まで長生きしてもらわなくっちゃ。大事にしないとうさに怒られちゃう。そして、縁があればまた次のうさぎさんを育ててみたいな。皆さん、本当に御心配おかけしました。今後ともよろしくお願いしますね。